南都鏡神社

御祭神

  • 本社
    • 天照皇大神
    • 藤原広嗣公
    • 地主神
  • 別社 式内赤穂神社
    • 天児屋根命・比売神
  • 末社
    • 天神社 火雷天神
    • 祖霊社 歴代の氏子内功労者を祀る(昭和36年10月創祀)
    • 天満宮 菅原道真公・市寸嶋姫命
  • 攝社 比売神社
    • 十市皇女・市寸嶋姫命(昭和56年5月9日鎮座)

御由緒

若き日の広嗣公の歌(万葉集巻8 1456)。
桜花を娘子に贈りて、「この花の ひとよのうちに 百種(ももくさ)の 言ぞ籠(ことぞこも)れる おほろかにすな」。

藤原広嗣公は、式部卿左大臣宇合(うまかい)の長男で、母は右大臣石川麻呂の娘であった。幼いころより文武の才に長け、管弦歌舞の道、天文陰陽の技に精しかった。従五位大倭守、右近衛少将を経て、天平10年大宰少弐(だざいのしょうに)に任ぜられた。

この頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。

純清・剛直な広嗣公はこれを黙視できず、天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文(じょうひょうぶん)を天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。しかし、朝廷はただちにこれを謀反(むほん)と断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。

同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡(おんがぐん)に軍を構えた。広嗣公率いる大宰府軍は広嗣公、綱手、多胡古麻呂など1万、官軍は大野東人、紀飯麻呂、佐伯常人、安部虫麻呂など1万7千であった。10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。

義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。

その後僧玄昉は天平17年筑紫に配せられたが、観世音寺落成式に臨んだ時、急死した。世の人はこれを広嗣公の祟りとした。真備もまた孝謙天皇が即位してから肥前に左遷された。

この左遷に際し、広嗣公の霊を祀り鏡尊廟(現唐津市の鏡神社)を建てて崇められた。それ以降、霊信仰が世にあらわれた。かの頭塔伝説においては、玄昉が築紫に急死するやその遺体は奈良の地に飛散して、興福寺の境内に落ち、首は頭塔(ずとう)山に、腕は肘塚町(かいなちょう)に、眉と眼は大豆山町(まめやまちょう)に飛来したとの口碑が伝えられている。これは、広嗣信仰が背後にあったからである。

現社地は広嗣公の邸宅跡との伝えもあるが天平時代後期に新薬師寺復興の際、その鎮守神としてここに勧請された。末社火雷天神は、不空院境内にその御陵があるのを祀ったものと思われる。

本内容は「鏡神社小誌」昭和56年10月15日再訂から抜粋、加筆した。参考)吉川真司「聖武天皇と仏都平城京」講談社、坂上康俊「平城京の時代」岩波新書。

copyright©2012 Nanto Kagami Jinjya all rights reserved.